2012年6月5日火曜日

「山田経営維新塾メールマガジン」VOL8,2012.6.5号 「なぜ今、渋沢栄一か」


山田経営維新塾3回目の講義にお招きしたのは

コモンズ投信株式会社の渋澤健さんでした。

明治時代、日本の資本主義がまだよちよち歩きの時代にその基礎を築いた渋沢栄一翁の玄孫(やしゃご)と言った方が分かりやすいかもしれません。
維新塾の塾生は、もちろん「渋沢栄一とは何か」を予習してきていますよね?

渋澤さんは投資信託を運用していますから、バリバリ現役のビジネスマンです。 “生き馬の目を抜く”と言われる世界、株や債券、為替は国際化していますから24時間市場が眠るときはありません。厳しいマネーの世界を生きています。でもどうでしょう、そんなピリピリした感じがしたでしょうか。急ぎ足で塾生たちに伝えたかったのは、「マネーに生きるとは何か」ではなく、「現代に生きる渋沢栄一」でありました。



渋沢栄一は江戸幕末、農家の生まれだと言われます。
しかしわたしが翁から感じるのは、烈々たる古武士の風格です。
元々が尊王攘夷の志士になろうとした人です。黒船来航。江戸幕府は列国(特にアメリカ)の強圧を恐れ外交で妥協を重ねます。異国、何するものぞ、日本中の有意の人たちの意気が沸騰しました。若き栄一もその一人。
幕府は井伊直弼が大老になり攘夷論を力で抑え込もうとする(安政の大獄)。この頃渋沢らは、高崎城を乗っ取り、その勢いで横浜を焼き討ちして外国人をなで斬りにするという信じられないような計画を立てています。熱い熱い倒幕の思いというのでしょうか。無論、死ぬ覚悟をもっての計画です。

幸運なことに、この計画は日の目を見ることなくとん挫しました。逃亡浪人の日々の中で、伝手を頼って仕官したのが徳川慶喜公(最後の将軍になった人)です。運命のいたずらというのか、こと志しとさかさまに腐った幕府を支える側に回るのです。しかし公が将軍職を引き受けようというときには、筋を通して大反対。腐った大樹は滅びるままにするがいい、下手に火中の栗を拾うと公自身が大やけどをするという読みです。
しかしその説得は功を奏さない。今日やめようか、明日やめようかと思案しているときに降ってわいたのがフランス洋行の話でした。慶喜公の弟、幼年の昭武(後に最後の水戸藩主になる)の養育掛かりとしてパリ万博に出向き、その後、留学生活の供をせよとのお達しです。勇躍、ヨーロッパに向かいます。
在仏中に徳川幕府は大政奉還、そして鳥羽伏見の戦いを経て幕府崩壊、明治新政府誕生となりました。渋沢栄一と言う人、運がいいのか悪いのかさっぱりわかりません。
一つだけ言えるのは、いつでも冴えわたっていたのは「経済・経営の才」だということ。

帰国後、栄一は慶喜公が逼塞(ひっそく)する静岡に向かいます。ここで取り組んだのが「商法会所」の設立。明治新政府の発行する新紙幣を使って物産を買い、後にその物産を売って利益を得るという戦略的な組織。新紙幣には信用がないからやがて物価は上がる。そこで売り抜ければ…、という商才が見事に当たるわけです。新政府から押しつけられた紙幣を活用したのは静岡藩だけだった、と言われています。

やがて栄一は新政府に引き抜かれて大蔵省に出仕。大阪造幣局の創設や公債の発行など貨幣改革をやってのけた後、民間に下ります。元々が攘夷の志士あがり。運命のいたずらで最後の将軍に仕えたものの、心は『この国のために尽くしたい』。しかし、新政府創建では立ち遅れてしまった。後塵を拝するのは潔しとしない。
と言うわけで、心はやはり「野に在り」となります。

明治政府は中央集権政府であり、有司専制ですから“人材”は官に集中、民間にこれぞと言った人がいないわけです。政府がいろんな施策をして国を富ませたいと思っても、民間の実戦部隊がいない。そこで渋沢翁が次々と新規事業立ち上げにかかわっていきます。

結果、手掛けた会社は470以上にも上りました。日本初の銀行・第一国立銀行をはじめ東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、田園都市(現東急電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、京阪電気鉄道やキリンビール、サッポロビール、東洋紡績などなど。今に残る名門企業が多い。それに加えて、東京証券取引所なども創設している。マネーの流れに株式は不可欠、ということをこの時代に見抜いていました。だから「株式会社の祖」なんですね。結局、渋沢翁がやったのは「日本資本主義の基礎工事」です。つくった会社は株式会社もあれば組合もある、合資会社もありますが、総じて「日本資本主義の父」と言われます。

渋沢栄一の事績を説明しているうちに、メルマガの紙数が尽きてしまいました。
ここには書きませんでしたが、渋沢栄一は武士ではないのに『斬るか斬られるか』の強談判(こわだんぱん)を何度かやっています。そういうところにわたしは渋沢の「反骨精神」を強く感じます。そしてその人がたまたま、人に抜きん出て計数に強かった。しかも中央精神(立身出世主義)ではなく、心は在野にあった。
この時代、ややもすると「経済」は「もうけること」と同視され、一段も二段も低いものと思われていた。しかし富国のためには経済の基盤はなくてはならなかった。そういうときに「渋沢」という特異な個性の人が「民の側」にいた。
明治と言う時代の幸運を、そんなところにもわたしは見るのです。

※渋沢健さんの講義については次回メルマガで!


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